【小説】『小説 天気の子』を読みました。なるほどつまりは「メディアの違いを理解せよ」というわけですね

※この記事は、小説投稿サイト「カクヨム」にて2019年8月26日に公開されたものを一部修正して転載しています。

カクヨム版

https://kakuyomu.jp/works/1177354054886711486/episodes/1177354054890897976

 新海誠監督の最新作、映画『天気の子』を鑑賞したので、監督自ら執筆された小説版を読んでみました。小説家新海誠としての作品を読むのは『小説 秒速5センチメートル』『小説 言の葉の庭』、そして『小説 君の名は。』に続き四作目になりました。

 まあ基本的に映画と全く同じ内容のためストーリーについて語ることはあまりないのですが、今回は映画とは違う小説独自の表現とかの話です。

  基本的な書籍情報。

  著者:新海 誠

 『小説 天気の子』

  KADOKAWA 角川文庫より出版

  刊行日:2019/7/18

  あらすじ

 全世界待望の新海誠監督最新作『天気の子』、監督みずから執筆した原作小説

 高校1年の夏、帆高(ほだか)は離島から家出し、東京にやってきた。連日降り続ける雨の中、雑踏ひしめく都会の片隅で、帆高は不思議な能力を持つ少女・陽菜(ひな)に出会う。「ねぇ、今から晴れるよ」。それは祈るだけで、空を晴れに出来る力だった――。天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄される少年と少女が自らの生き方を「選択」する物語。長編アニメーション映画『天気の子』の、新海誠監督自身が執筆した原作小説。

 小説版の『天気の子』は、主に主人公である帆高の視点で描かれる一人称小説となっております。しかしシーンによっては陽菜視点の場面もあり、また須賀や夏美が語り部となっているところもあって、さらにはモブキャラまでもが一人称で描かれているため、一人称小説ですが意外と視点移動が激しい内容になっています。

 この視点移動の多さは実に映像作品らしさがあると思います。一方で小説としてはなかなか珍しいのではと感じました。いえ小説だって頻繁に視点が変わる作品も多くあり、それこそ群像劇とかは目まぐるしく視点が変わっていきます。ただ、これは個人的なイメージの問題かもしれませんが、群像劇のような視点が多く変わる小説は三人称で書かれることが多いと認識しています。三人称の方が文体が安定するので。

 一人称小説の場合、僕、私、俺など、視点人物の一人称を書き分け、さらには視点人物の言葉遣いなどといったものも書き分けなければなりませんので、視点人物の数だけ文体を変える必要が出てきます。極端な話、たとえば幼稚園児による一人称小説であれば、全文漢字を使わずひらがなオンリーで書くべきだと思います(実際に『小説 天気の子』での園児のシーンは、全てひらがなで書かれています)。なにせ幼稚園児は年齢的に漢字を知らないので、漢字が登場してしまうと幼稚園児の語りではなくなってしまうのですから。

 このように、多視点の物語を一人称小説として書こうとすると、書き分けによって執筆の難易度が跳ね上がるのです。よって群像劇のような多数の視点の物語では、苦労して一人称で書くよりは客観的に語っていく三人称の方が書きやすかったりします。なにせは語り手は本編に出てきませんので、人数が増えようが文体に影響はなくフラットな文章で書くことができるのです。

 小説の書き方などを解説している書籍とかサイトなどで、「一人称は簡単」とか、「一人称は初心者向け」とか書かれているものを目にしたことがありますが、いやいや、一人称と三人称は難易度ではなく単純に表現方法が違うだけだから、というのが私個人の意見であります。

 一人称は物語を語っている視点人物の言葉で描かなければならないので、つまりは作者は登場人物になりきって執筆しなければなりません。「この人物はどのような言葉を使うのだろう」というのを一言一言吟味しながら書いていき、描写においても「この人物はこの場面においてどこを注目するのだろう」と考えながら書きます。仮に同じシーンでも、人物が違えば描写の表現方法も変わってきます。当然比喩表現も異なってきますし、それこそ視覚に注目しているのかそれとも聴覚に集中しているのかも、人によって違ってくるはずですので、たとえ視点人物が一人だけだったとしてもその人物のキャラクター性によって表現方法が違ってくるのです。「僕」とか「私」といった一人称を変えただけで文体が全部同じ小説は、正直に言って一人称小説である必要がないです。一人称の魅力がないです。

 自分も趣味で小説を書いていますけど、一人称で小説を書くときはほぼ視点人物に憑依されているつもりで書いています。幼稚園児の一人称小説を書く場合本気で幼稚園児と交霊して幼稚園児の語彙力で書きます。それだけ一人称小説って難しいんですよ。三人称の方が気楽に書けます(でも三人称で書いた自分の小説はどこか物足りなさを感じるんですけどね)。

 そんな一人称小説を、あろうことか群像劇的に視点移動の多い内容で書いたのが『小説 天気の子』です。正直三人称で書いた方が作者としても楽できそうですし、読者としても混乱なく読めると思うのですけどね。

 ただそれでも『天気の子』という作品を一人称で描く意義は確かにあります。

『小説 天気の子』のあとがきにおいて監督自らが映画と小説の表現方法の違いについてふれており、映像作品に匹敵するような印象をもたせるために小説の表現を工夫していることを語っています。書かれていることを私なりに解釈しますと、映画は映像や音楽で表現できる一方小説は文章だけなので、小説では様々な比喩を用いり、人物のバックボーンをしっかり描くことで、シーンの深みを増して映画に負けない描写にしている、ということだと思います。

 そういう意味では、複数の視点によって描かれている『天気の子』という作品を一人称の小説で描くことは、先述にある人物のバックボーンを描くうえで必要なことだったのではと思います。なにせ人物の言葉で物語を語っていくので、その人物の性格や背景がダイレクトに表現されるので。

 映画ってもちろん映像でありますから、基本的には三人称となります。人物を描写するためにその人物をカメラにおさめているわけですから、視点ということなら客観視点です。映像で一人称を表現するならばFPSゲームのようなカメラワークにならなければなりませんからね。でも実際映画でFPSみたいなことをやっている作品って少ないと思います。

 一方小説って、映像作品と違って一人称で描いても違和感はないと思います。視点人物が思ったことを言語化していて、いわば視点人物の視界がそのままカメラワークとなるため、作中の人物と読者がリンクしやすいかと思います。読者が作中の人物の視界をジャックしていると言えますね。

 ということは、三人称的な物語は小説でも映画でもできる一方、一人称は小説で描くのがベストということもあり、なおかつ演出上人物をより掘り下げて描写する必要がある以上、『天気の子』を小説で描く場合一人称の方が相応しいのではないかと思えてくるのです。

 というか『天気の子』の小説を三人称で書いた場合、ストーリーが同じであることもあって、ただ単に映画『天気の子』のノベライズでしかなくなります。しかし全編一人称で描くことで、単純なノベライズではなく小説版『天気の子』となるわけです。

 よって映画『天気の子』と『小説 天気の子』は、登場人物は同じでストーリーも同じだけど、表現方法が異なる全く別作品ということになります。

 もちろん小説にしか出てこない描写や情報もあります。ただそれらは映画では描き切れなかったために補完としてノベライズしたというわけではなく、同じ作品を小説という異なる媒体で表現するうえで必要になった要素、というものでしかないのです。そういうことから、映画と小説は同じタイトルで同じ内容だけどアプローチ方法が全然違うから別作品だよね、ということなのです。

 結局のところ

「メ デ ィ ア の 違 い を 理 解 せ よ ! 」

 というわけです。

『小説 天気の子』は小説というメディアに合わせた『天気の子』なのです。

 でもつまりは、映画見ていなくても小説単体で充分楽しむことができるというもの。忙しくて映画館に行くタイミングがない方はとりあえず小説版を読んでみてはいかがでしょうか。

 ……小説版を読んだら、また映画館に行きたくなった(´・ω・`)

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