【小説】『今夜F時、二人の君がいる駅へ。』を読みました。なんだろう、理論武装したライト文芸って感じ

 毎度のことながらAmazonを適当に彷徨って見つけてきた小説を読み、こうして書評記事にしていますが、今回もそうです。ただ今回は作品と自分との相性が最悪だったためか、結構辛口な感想になっています。もし作品のファンの方がいらっしゃいましたら、先に謝っておきます。申し訳ございません。

 今回読んだ小説はメディアワークス文庫から出ている『今夜F時、二人の君がいる駅へ。』という作品です。

  基本的な書籍情報。

  著者:吉月 生

 『今夜F時、二人の君がいる駅へ。』

  KADOKAWA メディアワークス文庫より出版

  刊行日:2020/1/24

  あらすじ

 クリスマス間近、ベテルギウス超新星爆発を観測した日の夜。昴の乗った京浜東北線最終電車の第二車両が、突如消え去った。気づいた昴がいた場所は、まだ開通していないはずの高輪ゲートウェイ駅――そこは、5年後の未来だった。失われた時間に、最愛の彼女を亡くしていた昴。そして、様々な事情を抱える瞳、勇作、晟生、真太郎の乗客たち五人。変わり果てた未来に追いつけないでいた昴たちは、過去に戻れる可能性があることを知る。ただし、戻れるのは一人だけ――。衝撃の結末を読み終えた時、はじめてこのタイトルの意味に涙する――未来と過去をつなぐSF青春ラブストーリー。

 Amazonのレコメンド機能で見かけたのですが、Amazonの商品ページにあらすじの記載がなかったのでわざわざKADOKAWAのページにまで行って見てきたのですけど、正直「またこういうのか……」と辟易しました。

 2010年代後半では、新海誠監督作品の大ヒットの影響を受けたのか、ライトノベルやライト文芸においてタイムリープ系やセカイ系といったジャンルの青春作品が増えたような印象があり、この作品も例にもれずそういう系なのかと思いました。

 別に新海誠作品のような作風を否定するつもりはありません。むしろ好みであるくらいです。ただSFへの強い造詣を感じられる新海誠作品とは違い、「『君の名は。』以後」や「ジェネリック新海」などと揶揄される作品群では、表面的な要素しか踏襲されておらず、結果深みに欠けているという印象を抱かざるを得ません。

 言うなれば、新海誠作品ではSFへのリスペクトをしたうえで、一般受けするよう小難しいSF要素を薄めているのです。『君の名は。』や『天気の子』がSFなのかどうなのかは正直意見が分かれるところだと思いますけど、個人的には要素が薄まっているものの立派なSFであると考えております。

 一方でライトノベルやライト文芸などで見受けられる、少なからず新海誠作品の影響を受けたであろう作品は「なんちゃってSF」が否めません。タイムリープするものの不思議パワーで時間移動したらそれSFじゃなくてファンタジーだろ、と突っ込みたくなるくらいです。実際にそういった作品が多く登場したときにいちSFファンとして嬉々として読み漁ってみましたけど、見事に肩透かしを食らい痛い目を見ました。(新海誠作品も不思議パワーでタイムトラベルしたり天候を変えたりしていますけど、そのあたりを含めた新海SFについては後述します)

 そこに来て今回見つけた『今夜F時、二人の君がいる駅へ。』という作品では、レビューや感想サイトなどで「科学的である」や「理屈付けがされている」という感想を見かけましたので、SFファンとして見事に釣られて手に取ってみました。

 で、実際に読んでみたのですが、確かに時間跳躍について科学的な理屈が用意されています。ベテルギウスの超新星爆発によって生じた重力波でワームホールが形成された、という点については着眼点がよく、導入として掴みはよかったです。(ベテルギウスが超新星爆発を起こしても640光年離れているので地球に影響はほぼないと言われていますけど、不測の事態も起きるだろうと捉え、あえて気にしませんでした。あと、そもそもベテルギウスの超新星爆発は万単位の年月の幅があって我々が生きている間に爆発するとは限らない、というツッコミも同じく気にしないことにしました。あくまでフィクションです)

 このあたりの時間跳躍に関する説明はとてもよく調べられており、取材や資料の読み込みは素晴らしいと感じました。

 ただ物語全体として見てみると、その理屈付けを生かした独自の考察や設定が登場するわけでもなく、またストーリーとしても全くと言ってもいいほどに反映されていませんでした。

 言うなれば、科学的な理屈をつけたはいいものの、ただ理屈をつけただけでSFらしいテーマ性がなく、オリジナリティに欠けていてSFとしての読み応えが皆無だった、という具合です。

 たとえば日本SFの名作『日本沈没』(著者:小松左京)だと、日本列島が地殻変動によって沈下するというビジュアル的にも派手な設定が登場し、理屈付けとしてもプレート・テクトニクスなどの当時の科学を活用して描写されています。ただ『日本沈没』の本質的なテーマでは、国土を失っても日本人であり続けられるか、といった精神や思想への問いかけといった側面もあります。これは出版時期がまさに高度経済成長の末期だったのもポイントで、当時の同時代性に直撃した作品でもあります。

 また21世紀になってからの名作だと伊藤計劃作品が印象深いかと。とくに遺作となった『ハーモニー』では、要素だけをみると管理社会を描いたよくあるディストピア作品ではありますが、執筆当時は闘病生活を送っていたいたこともありディストピアとしての医療福祉社会という、もはやそのときの作者でなければ描けないような個性を発揮しています。その作中において健康から善意の話に持っていき、また社会や個人などの話に踏み込み、最終的には人の意志のあり方について問いかけるといった、SFはSFでもスペキュレイティブ・フィクションのイメージを抱かせつつも、物語としてはエンタメ性のある読みやすさと読み応えを両立している、紛れもない傑作であります。

 そのほか、この書き物で以前記事にした作品をあげると、『消滅世界』(著者:村田沙耶香)では発達した人工授精技術によって変化した社会においての家族のあり方を問うた、所謂フェミニストSFであります。『失われた過去と未来の犯罪』(著者:小林 泰三)では全人類記憶障害になったことで身体に外部記憶装置をつけるようになったSFで、記憶と肉体の分離という設定から果たして魂といったものが宿るのはどちらか、ということをブラックジョーク的に描いています。

 また時間跳躍ものであれば、『リライト』(著者:法条 遥)ではサスペンス風味でタイムパラドックスについて挑戦的に描いていますし、『HELLO WORLD』(著者:野崎まど)では時間跳躍と見せかけた仮想世界でさらにそこから並行世界誕生の瞬間を描くというまさかのアプローチをしています。

 ライト文芸という枠で見るなら『恋する寄生虫』(著者:三秋 縋)などは、寄生虫の生態の説明による理屈と、そこから発展した独自の寄生虫ネタを用いて、人の意志や決断の本質について問いかけるといった、ライト文芸でありながら驚くほど本格的なSFを描いています。

 SFの面白いところは、ある種の思考実験を娯楽的に体感できるところにあると感じています。「もし世界がこうなったら――」という想像を科学要素で補完し、そこから科学によって変化した世界に思いを馳せることで哲学的や思索的なテーマ性が生まれ読者に問いかける。そういった作者の自由な発想やテーマがすなわちセンス・オブ・ワンダーに繋がっていくのではと個人的に考えております。

 で、先程の新海誠作品のSF性についてですけど、確かに近年の新海誠作品はSF要素が薄くなっていますが、しかしながらオリジナリティのある世界観やテーマ性からは確かなセンス・オブ・ワンダーを感じられるのです。最新作の『天気の子』も確かに不思議パワーで天候を変えてはいるものの、天気への考察やラストシーンなどで見られるifな東京描写などにSFの残滓が残っている印象であり、見方によっては充分SFとして解釈可能だと考えております。

 そういった観点から今回読んだの『今夜F時、二人の君がいる駅へ。』を紐解いていくと、もはや手垢がついているほど使われてきた古典的SF要素「時間跳躍(タイムトラベル)」について科学知識を用いて論理的に補完したのはいいものの、そこから発展したオリジナルの要素やテーマ性メッセージ性が全く見受けられず、SFとして物足りなさを感じ読み応えがなかったといったところ。

 加えて肝心の本編では、時間跳躍の科学的理屈を除くと、それこそ不思議パワーでタイムリープして恋人なりなんなりを助けてハッピーエンド、といったありふれたライト文芸としてのストーリー。

 以上のことから、充分サイエンスしているのですが、ではサイエンス・フィクションしているかと言うと疑問が生じる、という内容でした。

 まさに「理論武装しただけで、根本はよくあるライト文芸」、というのが読み終わって感じた率直な感想でした。

 ……と、ここまでなら別にそこまで酷評することもないです。そういうニーズがあって出版されたけど結局のところ読んだ自分との相性が合わなかった、と納得できます。

 ですがこの作品の最悪な部分としては、SF要素とライト文芸要素が噛み合っておらず互いに食い潰しているところにあるのです。

 この小説はライト文芸ジャンルであることを加味したうえでも、あまりにもご都合的な展開が多い。説得パートでは肩透かしを食らうレベルであっさり解決するし、潜入パートでは施設の警備ザル過ぎるし、知的でクール()な登場人物が終盤で恋に目覚めて衝動的に行動するしで、登場人物はテンプレートのようなキャラクター造形であり、血の通った人間に思えず人形のように話に翻弄されて動かされている感。悪く言うつもりはありませんが、よくも悪くも少女漫画やケータイ小説のような物語です。

 そんなある意味お花畑なお話において、時間跳躍を説明する科学パートはSF好きや科学好きではない方が読むとおそらく小難しく感じられるかと思います。普段少女漫画やケータイ小説系の恋愛小説を読む読者層が、恒星の超新星爆発とか重力波とかワームホールとか説明されて果たして理解できるのだろうか? 自分なんかはSFに慣れているものですからスムーズに読めましたけど、慣れない方にとってはこの部分でテンポがぶつ切りになってしまうのではと心配になります。ライト文芸レーベルで出版され普段ライト文芸を読む層がメインターゲットであると思いますけど、その客層と科学パートは相性よくないのではないかと思わずにはいられません。こう中途半端にサイエンスするくらいなら、いっそのこと不思議パワーってことにして割り切った方が潔いし馴染みやすいと思います。

 ではSFを嗜むSFファン向けとしてはどうなのか? これがですね、本編のご都合展開がSF要素を殺してしまっているんですよね。とくにビックリしたのがエキゾチック物質のくだり。ベテルギウスが超新星爆発してその重力波によってワームホールができたのはいいとしましょう。では何故京浜東北線高輪ゲートウェイ駅というピンポイントでタイムリープしたのか? 実は高輪ゲートウェイ駅工事中に近くでエキゾチック物質が発見されました! ……オイ! 確かに負の質量をもつ物質はワームホール理論に登場しますけど、それがあたかも鉱物のように地中から発掘されるのかよ! とあまりにもご都合的で突っ込まざるを得ない。なんか作中にて落ちてきた隕石かもしれないとかなんとか書いていますけど、いや負の質量が実在してたら何かしらの影響が起きているはずでそんなものが都心のど真ん中にあるわけねぇだろ。

 といった具合に、ライト文芸読者層にとってはSF要素が邪魔し、SF読者層にとってはライト文芸要素が邪魔をするという、まさに水と油みたいな関係になってしまっているのです。

 いやでもライト文芸であってもSFとして完成されている作品も多くあります。先程取り上げた『恋する寄生虫』もその一つの例でありますし、他ではたとえば入間人間作品のSFとかもしっかしした作りになっています。決してライト文芸とSFの相性が悪いわけではないのです。

 相性悪くないはずなのに、どうしてこの作品はここまで要素同士が反発し合う内容になったのか不思議でなりません。文体からして若い作者さんだと思われますけど、若さゆえに、みたいなことでしょうか。謎です。

 といった感じで、最後まで読み終わって抱いたモヤモヤのあらかた吐き出せました。自分基本的に書評を書く際はあまり悪いことを書かないようにしていますし、人の作品を批評するときでも必ず良い点をあげて長所短所の両方を述べますが、すみませんこの作品に関しては自分でも擁護不能でした。面目ないです……。

 おそらくひと記事まるまる使って酷評したのは初めてかもしれませんが、なんか疲れました。この作品についてはもう忘れたいですし、おそらくこの作者さんの作品は金輪際読まないと思います。でもこういう自分と相性最悪な作品の読書もまた貴重な体験でした。

 とりあえず、理論武装しただけではSFにはならないみたいです。

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