【小説】『know』を紹介。「調べる」という意味が曖昧になる時代がくるかも?

※この記事は、小説投稿サイト「カクヨム」にて2018年9月26日に公開されたものを一部修正して転載しています。

カクヨム版

https://kakuyomu.jp/works/1177354054886711486/episodes/1177354054887086842

 今回は脳にディバイスを埋め込んだ近未来の日本を描いたサイバーパンク作品をご紹介。

 基本的な書籍情報。

  著者:野崎 まど

 『know』

  早川書房 ハヤカワ文庫JAより出版

  刊行日:2013/07/24

  あらすじ

 超情報化対策として、人造の脳葉〈電子葉〉の移植が義務化された2081年の日本・京都。情報庁で働く官僚の御野・連レルは、情報素子のコードのなかに恩師であり現在は行方不明の研究者、道終・常イチが残した暗号を発見する。その”啓示”に誘われた先で待っていたのは、ひとりの少女だった。道終の真意もわからぬまま、御野は「すべてを知る」ため彼女と行動をともにする。それは、世界が変わる4日間の始まりだった――

 作者の野崎まど氏といえば、第16回の電撃小説大賞にて応募作『〔映〕アムリタ』がメディアワークス文庫賞を受賞し、同作でデビューされた方。ちなみにこの第16回というのが、メディアワークス文庫賞が新設された回であり、野崎まど氏はメディアワークス文庫賞の初代受賞者ということになります。

 また幅広く活躍されており、講談社タイガから出ている『バビロン』が今度アニメ化され、去年の2017年には脚本を務めたテレビアニメ『正解するカド』が放送されました。……まあ、今回は『正解するカド』のことは忘れてください。いやー『正解するカド』が発表されたとき、『〔映〕アムリタ』と『know』の作者さんということもありすごく期待していたのですが……そうですね、序盤は間違いなく傑作でしたが、後半は……どうしてこうなった? いやホント、『正解するカド』のことは忘れてください。あ、デビュー作の『〔映〕アムリタ』は面白いですよ。

 さて今回取り上げるのは、個人的に野崎まど作品の中で一番の傑作である『know』です!

 作品の内容はあらすじの通り、サイバーパンクです。この作品は、まあここで詳しく感想を語るよりは、実際に読んでいただいた方がいいと思いますので控えます。というより、この小説はかなり濃い内容になっています。普通に一読するだけでもエンタメSFとして楽しめますが、作中には哲学的なテーマが所々に挟まっており、またかなり細かい伏線も大量にあるため、読み終わったあと自分なりに解釈したのちにネットで考察を調べるという、かなり読み込むことを前提とした作品です。ある意味読解力が試される小説でもあり、また自分が解釈したことと他の方が解釈したことを擦り合わせるという楽しみもあります。そんなこんなで、読み終わったあと作品について調べたくなる、語りたくなるといったとても深いテーマを扱ったSF作品です。

 そしてこの作品にとって「調べる」という言葉が重要になってきます。「調べる」という行為よりは、その意味が変化していてそのことについてどう感じるか、という問いかけについて考えるみたいな。

 作中では高度情報社会が成立している近未来で、頭の中に電子葉というディバイスが埋め込まれています。つまり現代でいうところの、スマートフォンが頭の中に入っている状況です。今この時代を生きる私たちも、何かトラブルがあればパソコンやスマートフォン等でネット検索し、解決策を模索すると思いますが、ではその端末がすでに頭の中にあるのならば、「予め知識として頭の中にある解決策」と「頭の中にある端末で検索した解決策」には一体どのような違いがあるというのでしょうか?

 そうです! この高度情報社会と電子葉という脳内ディバイスにより、「調べる」という言葉はすなわち「知っている」という意味に変化した未来なのです。

「調べる」=「知っている」です。

 そう、この「調べる」=「知っている」ということが、この『know』という作品が内包するテーマの一つなのです。

 でもこの「調べる」=「知っている」っていうのは、今の時代にも当てはまることですよね?

 たとえば、小説を投稿している作者ユーザーさんなら、小説を執筆するうえで資料としてネット検索したものを用いると思います。私もします。ネット検索しなくても、たとえば図書館で借りてきた資料本でもいいです。事前に調べたうえで小説を書かれているかと思います。ならば書き上がった小説を読者が読んだ場合、「前から作者が知っていた知識」と「資料で調べた知識」の違いなど区別がつかないと思います。

 もちろんもともとある専門的な知識と、その場しのぎの即席の知識とでは雲泥の差があると思います。ただ小説という媒体の中で一部分だけ参考にした場合、小説を読んだだけでは作者の専門性を正確に言い当てられることは難しいかと。

 つまり「事前に知っていること」と「その場で調べたこと」は、一度何かしらのかたちで出力してしまえば識別不能になるわけです。とりわけネットワークが発達すればするほど、「調べる」という行為のタイムラグが少なくなりますから、もともと「知っている」ことと大した差はなくなります。

 ここで少し面白い話を。以前ニュースで、麻生大臣が「新聞を読まない世代は自民党支持が多い」みたいな発言をしたというのを耳にしました。

 もしこの発言が確証のある話ならば、所謂ネット世代と呼ばれる10代20代30代あたりの世代と、主にテレビや新聞を主な情報源としている高齢者とでは知識の差が生じているということ(ここでの「知識の差」とは、知識の質や量のことではなく、知識の方向性のこと)。もちろん世代による価値観の違いもあるでしょうが、しかしながら情報の調べ方が意見の差を生み出しているというのは十分あり得る話です。

 よく言われているのが、ネットは多くの情報から取捨選択ができ、情報の擦り合わせが可能、ということや、一方テレビや新聞は報道側の主張が反映されやすい、などということ。もちろんネットの情報がすべて正しいというわけではないですが、しかし複数の情報をまとめて取得できるという点においては、やはりネットの方に軍配が上がるでしょう。テレビや新聞でも、複数を見比べ読み比べすればいいですが、なかなかニュースを複数番組見たり、複数の新聞を取って目を通したりするのは、余程時間に余裕がある方にしかできないと思います。ネットにしろテレビにしろ新聞にしろ、情報に対するリテラシーが、そうした知識の差を生み出すのではないでしょうか。

 つまり全ては情報の検索手腕に左右されるということ。

 そして得た情報の集合体を知識とするならば、つまるところ「調べる」=「知っている」という関係が成立してしまうのではないでしょうか。

 知識とはすなわち情報を調べる能力のこと、というのはもうすでに到来しているのかもしれない。

 そうなると、ではどこまでが自分自身の知識なのかという哲学的な定義の話にもなってきますが、でも「調べる」も所詮アウトソースした知識とするならば、やはり調べることや調べた結果というものも本人の知識としてカウントするべきなのではないかと。

 ネットが発達する前は「調べる」という行為に時間がかかっていたため、「調べる」は所詮「調べる」という域を脱することはありませんでしたが、昨今の手元のスマートフォンで簡単に検索できるネット時代、そしてこれから訪れるであろうより高度なネットワーク社会のことを思うと、このまま時代が進めば進むほど「調べる」と「知っている」の境界がどんどん曖昧になっていくかと思います。

 そんなこれからの未来直面するであろう問いをかなり大袈裟に描いたのが、この野崎まど氏の書いた『know』という作品になるわけです。……というか「know」という単語の意味がそもそも「知る」ですからね。

 というわけで、そんな「知る」をテーマにし、「知る」について様々な問いかけに触れることができる『know』という小説は、大きなスケールで予想外のものを探求し、そして結末で誰もなし得なかった重大な「知る」に到達します。多面的に好奇心を刺激される傑作SFですので、深いテーマに触れたい方は是非一読を。

 最後に、レーティングについて。

 この作品には、14歳の女の子と性行為するシーンがあります。しかもかなり重要な伏線のシーンのため読み飛ばし不可能。未成年の性行為に抵抗がある方は要注意を。14歳の女の子のエッチなシーンに興味津々な方は、各自本を買ってじっくり読んでください。

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