【小説】『雨の降る日は学校に行かない』を読みました。聡い子ほど学校生活ってつらいよね……

※この記事は、小説投稿サイト「カクヨム」にて2019年5月12日に公開されたものを一部修正して転載しています。

カクヨム版

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 自分の本質は基本的にアホな人間なので、Amazonを彷徨って読みたい小説を発掘しているときに「お! 表紙が雰囲気あって可愛い。女の子の青春ものかな? 読もう!」とアホ丸出しの軽い気持ちで購入して読んでみましたが、予想以上にシリアスで鬱々した話だったので打ちのめされている。いままあ、事前情報なしで読んだ自分が悪いんですけどね。でもすごくいい物語でした。タイトルは『雨の降る日は学校に行かない 』です。

 基本的な書籍情報。

  著者:相沢 沙呼

 『雨の降る日は学校に行かない』

  集英社 集英社文庫より出版

  刊行日:2017/3/17

  あらすじ

 保健室登校をしているナツとサエ。二人の平和な楽園は、サエが“自分のクラスに戻る”と言い出したことで、不意に終焉を迎える―(「ねぇ、卵の殻が付いている」)。学校生活に息苦しさを感じている女子中学生の憂鬱と、かすかな希望を描き出す6つの物語。現役の中高生たちへ、必ずしも輝かしい青春を送って来なかった大人たちへ。あなたは一人きりじゃない、そう心に寄り添う連作短編集。

 中学生という時期はまさに思春期真っ盛りであり、幼いながらも様々なことを思い悩む年齢です。その年頃の女の子たちがそれぞれの学校生活において生きづらさを感じ、藻掻き苦しみながらも何かを見出そうとする。『ねぇ、卵の殻が付いている』『好きな人のいない教室』『死にたいノート』『プリーツ・カースト』『放課後のピント合わせ』、そして表題作『雨の降る日は学校に行かない』の6篇からなる作品集です。

 それぞれのお話を簡単に紹介しますと、

『ねぇ、卵の殻が付いている』は保健室登校する二人の女の子の話で、保健室で勉強するその環境はまさに二人だけの特別な空間だった。しかし一方が教室に戻ることを決意したことにより、二人の関係に亀裂が生じてしまう作品。

『好きな人のいない教室』は、大人しい女の子が隣に座る地味な男子に頼まれて教科書を見せてあげたことをきっかけに、クラスのイケてる女子グループからカップルとしてからかわれることに。その幼稚なからかいはどんどんエスカレートしていき、次第に女の子は教室にいられなくなってしまう話。男子の性格がなかなかのイケメンなのがこの作品のポイント。

『死にたいノート』は、日常に生きづらさを感じている女の子がその気持ちを吐き出すため、様々な創作遺書を手帳に書き綴っている。しかしその手帳を紛失してしまい、そしてクラスの女子に拾われてしまう。女子はこの学校に死にたいほど思い悩んでいる子がいると信じ込んでしまい、救い出すために書いた本人を探しはじめてしまう。自分が書いたと言い出せなかった女の子は、流れで協力することとなってしまい、かくして自分が書いた存在しない子を捜索するはめとなる。

『プリーツ・カースト』はカースト上位のグループに所属している女の子がグループ内でウケるため、小学校時代の友人をネタにひと笑いをとろうとする。しかしそれは波紋のようにクラス中に伝播していき、次第にクラスをあげてのいじめに発展していく。発端となった女の子は発言力のある同グループの女子と旧友との間で板挟みとなり、身動きできなくなってしまうお話。女子の地位とスカートの丈の長さは比例する、という新しい発見をした作品。

『放課後のピント合わせ』は冴えない女の子が承認欲求を満たすために、際どい自撮り写真をネットに公開し続けているお話。あるときリクエストに応えるため学校で自撮りをしていたところに先生が来てしまう。しかし先生は女の子のことを写真好きと勘違いし、一眼レフカメラを貸し与えることに。途方に暮れる女の子は一眼レフを持ったまま、いつの間にかクラスの中心人物のリア充になった友人と遭遇してしまう。本書唯一の後味がいいエンディング。

『雨の降る日は学校に行かない』は既読スルーをきっかけに熾烈ないじめを受けるようになった女の子の話で、理解が足りず見当違いなことを言い続ける担任の先生や、内向的な娘を過度に卑下する親など、周囲の大人に頼ることもできない完全に四面楚歌な状態であり、思い悩んだ末に感情が暴発して学校に行けなくなってしまう。実は本書に掲載されているとある作品の前日譚であることが後半明かされるギミック。こちらの主人公の女の子が、後日談となる別作品では180度反転した印象となるのが面白いところ。

 といった感じで、ほぼすべての作品が終始鬱々した内容で、読んでいる最中はメンタル的に相当持っていかれる短編集です。この小説を読む際は、気合を入れて気持ちに余裕を持った状態でないといけません。少しでも落ち込んでいるときに読むと容赦なく死にたくなるので、メンタルが弱い方にはオススメできませんが、しかしこれは多くの方に読んでもらいたいですね。思春期という特別な時期を生々しいまでに描き切った傑作青春小説です。

 この小説を読むと学校や教室といった特殊な空間について考えさせられます。

 自分なんかは子供の頃からアホな子だったので、そんなに深いことを考えることなく(そもそも考える頭もなく)、普通に学校に通っていましたね。当然学校生活を送っていればからかわれたりいじられたりするときもありますが、割と毎日楽しく過ごしていたような気がします。嫌なことがあった記憶もありますが、大人になった今思い返すとそんなに大したことじゃねぇなー、と感じます。

 ただこうして大人になって多少は賢くなった今だからこそ考えると、やっぱり学校って異常な空間だったんだなって思うことがあります。それは当時の自分の環境のこともそうですし、他の方のエピソードを聞いたときも同様です。近年ですとブラック校則とかの話を聞くと「やっぱ学校っておかしいわ……」って思います。ちなみに自分が通っていた高校にも謎校則がありまして、冬服は必ず学校指定のジャケットを着ること、というやつ。衣替え時期の暑い季節でもジャケットを脱ぐことができず、かといって薄っぺらいジャケットですから肌寒い日はカーディガンやセーターで過ごしたいのにその上から着ろと言われる。ジャケットだけじゃ寒いけどジャケットも着たら暑いんじゃ! という体温調節に不便な制服だった思い出があります。まあそれはどうでもいい話。

 まあこの作品においては学校の環境というよりは教室内の人間関係によるトラブルがメインとなります。そして30人の子供を一部屋に押し込めるあの独特の空間は、やっぱりおかしいと思いますね。そりゃ、未熟で幼稚な子供が30人もいればおかしな方向に歪んでいくのは当たり前ですよ。行動力や発言力ばかりある子供(所謂陽キャ)が集団の中心になっていき、大人しい子や真面目な子(所謂陰キャ)が隅に追いやられていく空間。大人がいても精々担任一人くらいなもので(副担任がいれば二人ですが)、しかも大抵の場合授業中しか居らず授業時間外のことは把握しにくい状況ですから、教室という子供だけの社会がいかに危ないのか容易に想像できてしまいます。幼稚なきっかけで関係が崩壊していき、稚拙なやり方で平然と残酷なことをしてしまいますからね。未発達な倫理観だけで制御される子供社会って、大人の社会以上に生きづらいものだと自分は思います。

 聡い子ほど敏感で、敏感だからこそ傷つきやすい。けど傷ついたことによって学校のおかしさや教室の歪みといったものが見えてくるのかもしれませんね。幸か不幸か、私は大人になるまで気がつきませんでしたが。

 自分はいじめに対して、割と突き放した考えを持っています。結局のところいじめとは一種の自然淘汰でしかないのだと。

 声を大にして主張すると炎上しそうな考えですけど、より優れた個体を成体にするために、同じ種族間で無自覚に淘汰し合ってしまうのではないかと。林業や農業とかにある間引きを自分たちでやってしまう、みたいな。遥か昔、それこそまだ人間が野生動物のように生活していた時代に、不安定な食糧を平等に分け与えて種全体が滅びるよりは優れた個体だけ残して種を存続させるみたいな本能が、人間には残っているのではないかと考えてしまうときがあります。あ、コレなんだか『虐殺器官』(著者:伊藤計劃)みたいですね。

 確か伊藤計劃作品で『虐殺器官』か『ハーモニー』のどちらかで糖尿病についての話があったような気がします。寒冷期を生き延びるために糖分が必要になり進化の過程で獲得した機能だが、寒冷期ではない現在ではむしろ不要なもので、しかも命に関わる厄介な機能に成り果てている、といった話だったような気がします。

『虐殺器官』では言葉によって種族を間引く機能が人間には残っているとしていますが、実はこれに近い機能は実在していて、現在では不要になった淘汰の本能が現代文明下で表面化したのがすなわち「いじめ」なのではないかと。今では間引く必要は全くないのに、遺伝子にそうプログラムされているせいで弱者を排除してしまうのでは、みたいな。

 なので個人的に思ってしまうのは、いじめって絶対になくならないものだ、ということ。いじめは人としての感情や理性で引き起こされるのではなく、生物としての本能で引き起こされているから。根本的にいじめをなくすには、人は生き物であることをやめた方がいい。あ、コレは『ハーモニー』みたいですね。

 こういう考えに至ってから、いじめという唾棄すべき行為にある種腑に落ちるものがあるように思えました。本来なら皆平等な空間なのに本能として生存競争が刺激され、徒党を組んで自身を大きく強く見せ、孤独で弱そうな個体を攻撃してしまう。なぜなら人間は本能に抗うことができないどうしようもなく野蛮な生き物だから。当人たち、いじめの加害者も被害者も、なぜいじめが発生したのか理解できてないと思います。無自覚な部分が引き起こしているので、明確な原因など最初からないのです。

 本書に収録されている作品を紐解いていくと、『好きな人のいない教室』は教科書を見せたことでからかわれ、『プリーツ・カースト』では冗談のつもりが過激となり、『雨の降る日は学校に行かない』では既読スルーといった、客観的に冷静に分析すると「え? そんなことで?」といった本当に些細なきっかけに過ぎません。『ねぇ、卵の殻が付いている』『死にたいノート』『放課後のピント合わせ』でははっきりとしたいじめではありませんが言い知れない不安がスパイラルとなって内向的となり、言い方は最悪ですが自らいじめの標的になるよう無自覚に行動しているようにも捉えられます。しかしこれらのことは現実に起こり得る問題としてのリアリティが確かにあります。

 どの作品も明確な原因というものが存在せず、存在しないからこそ事態は泥沼化しているのではないでしょうか。そこには感情や理性で説明できるものがないからこそ、いじめの解決を困難にさせているのでしょう。いじめ加害者を問い詰めても目に見える効果がないのも、加害者本人に自覚はないし自分で理解できる動機がそもそもないのですから。所詮本能だけで攻撃しているので。

 ……と、書きながらおかしな方向に進んでいることを自覚してきました。これ多分普通なら「いじめはよくない。ダメ、ゼッタイ」といった印象になるはずの作品ですが、伊藤計劃作品に影響を受けているせいもあって、普通じゃない頭のおかしい印象を抱いてしまっているのかもしれません。常人はいじめのことを「本能による淘汰」なんて言うわけないですからね。アカンアカン、軌道修正しなければ。

 閑話休題。

 ……というか、今回の記事は普通に叩かれそうな内容になっている気がする。

 誤解がないよう一応言っておきますが、私は別にいじめ行為やいじめ加害者を肯定しているわけではありません。むしろ忌むべきものだと認識しています。

 ただ一方で、本質的な解決の困難さに一種の諦めの境地に到達している節があります。正直に言うと、いじめってどうすればいいんですかね? 私にはもうよくわからないです……。

 ちなみにですけど、「閑話休題」以降も記事を書いていたのですが、より叩かれそうなことを書いてしまったのでカットしました。もうこれ以上書くと余計なことしか書かないだろうから、もう書くのをやめた方がいいのかもしれませんね。おそらくこの連載が始まって以来一番書くのに時間がかかった記事かもしれない……。

 最後にですが、本書の最後に収録されている解説がたいへん素晴らしく、とくに序文が印象深かったので、抜粋して紹介します。解説者は子役時代「はるかぜちゃん」の愛称でお馴染みでした女優の春名風花さんです。

 ――↓抜粋分(『雨の降る日は学校に行かない』解説より)↓――

 まるで他人と自分をくらべて絶望するために、学校に通っているみたい。泣いてもわめいても駄々こねても何をしても可愛い可愛いと褒めてくれた親でさえ、よその子と私をくらべてる。そりゃそうか。同じ地域、同じときに生まれた同じ歳の子達が、ほうらどれがいいですか? くらべてください! といわんばかりに、ショーケースに並んでいるんだもん。何もしなくても順位がついて、何もしなくても、比較されているようで恥ずかしい。外になんて出なければずっとお姫様でいられたのに、どうして学校なんてあるんだろう。

 そう思っていた時期が私にもありました。嫌だったなあ。でもあの頃、絶望していたのは自分だけじゃなかった。地味な子も派手な子も、不安な気持ちはみーんな同じだった。私が自信をなくして悩んでいた頃、どの子もきっと他人と自分をくらべて悩んだり、焦りや苛立ちを感じたりしていたんだと思う。

 同じ箱庭、ぐらぐらな私達。もっと踏み出せば、何かが変わったかな。

 いま学校に通っているあなたへ。この本の中にはあなたや、あなたの知っている女の子がたくさん住んでいます。あの子やあの子の心の中を、ほんの少しのぞいてみませんか。ハッピーエンドではないけれど、すべて、ほんの少しの救いとともに終わる短編集。どうか、あなたの絶望が救われますように。

 ――抜粋ここまで――

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