【漫画】『少女終末旅行』を紹介。これは代表的な「新日常系」作品

※この記事は、小説投稿サイト「カクヨム」にて2019年11月12日に公開されたものを一部修正して転載しています。

カクヨム版

https://kakuyomu.jp/works/1177354054886711486/episodes/1177354054892147891

 前回は新潮文庫nexから出ている『人ノ町』(著者:詠坂 雄二)について記事を書き、その中で漫画家つくみず先生による表紙イラストの雰囲気がそのまま読む側のイメージに影響を与えた、ということにふれました。

 記事の中でつくみず氏の代表作として『少女終末旅行』をあげましたが、「ならばいっそのこと『少女終末旅行』で一本記事を書いてしまおう!」というノリで書いたのが今回です。

  あらすじ(Wikipediaより一部抜粋)

 文明が崩壊した後の終末世界。主人公のチトとユーリは半装軌車のケッテンクラートで廃墟都市をさまよい、その上層を目指してひたすら移動を続ける。さまざまな文化・宗教・兵器の痕跡の発見や、道中で出会ったごくわずかな生存者との交流を経て、最上層を目指す。

『少女終末旅行』は新潮社のwebサイト『くらげバンチ』で連載していましたが、2018年1月に完結。単行本は全6巻となっております。また今年には第50回星雲賞コミック部門を受賞をし、SF作品として評価されています。

 基本的なコンセプトとしては「廃墟となった巨大都市を女の子二人で探索する」というシンプルなものです。事前知識を必要とする設定等は控え目に作られているため、所謂ポストアポカリプスと呼ばれるSFジャンルではありますがSF作品特有のハードルの高さは感じられないかと思います。特別な科学知識などがなくても充分楽しめ、万人受けするタイプのSFといった作風ですね。

 物語としても、思わず泣いてしまうような感動話や、盛り上がる熱い展開といったものはなく、終始穏やかなストーリーラインとなっております。話として起伏が少ないといえばそうなのですけど、その分安定した面白さが長く続く内容でもありますので、そうそう飽きることはないかと思います。

 では『少女終末旅行』の物語としての魅力は何か? まずあげられるのが日常系としての側面です。チトとユーリという二人の女の子によるゆるーい会話劇が展開するので、肩肘張らず気楽に楽しむことができるかと。ただ、一般的な日常系ですと人によって合う合わないという好みの問題が起きがちであり、ハマらなければただただ退屈な作品となってしまう傾向があるかと思われます。

 しかしながらこの『少女終末旅行』では、ただの日常系に収まらない要素があります。それはライトな哲学要素です。チトとユーリが二人で廃墟の都市を探索するお話になるのですが、その過程において過去の文明や衰退した技術などを見つけ、そこからふとした疑問や感想を抱く流れになります。その疑問や感想が抽象的であったりしますし、根源的であったりといったものでして、我々が普段漠然と捉えていることや気にも留めないような些細なことに注目されるので、受け手としては痛いところをつかれる感覚になるかと思います。例えるならば、何もわからない小さな子供から「なんで空は青いの?」とか「なんで虫は生きれるの?」みたいなことを尋ねられ返答に困る大人、みたいな感じかもしれません。エピソードで言えばの戦争の話とか、あと寺院の話とか、そういった盲点のような問いかけがあるといった具合。日常系特有のゆるーいノリで描かれつつも話としてはある種皮肉が効いた風刺的であり、緩さの中に確かな深みがある感じですね。ライトではあるもののディープでもある、みたいな。

 といった具合に、『少女終末旅行』は基本日常系ですが、ただの日常系に収まらない内容になっています。

 そしてただの日常系ではない作品のことを「新日常系」と分類することもあります。

「新日常系」というジャンルが誕生したのは割と近年であり、一説によるとテレビアニメ『結城友奈は勇者である』によって提唱されたジャンルであるそうです。

 この『結城友奈は勇者である』という作品は、一見日常系アニメのようでありますが、しかしながらメインの登場人物たちは日常の裏側で過酷な運命や使命を課せられており、終始嫌な予感が漂う、実はえげつないくらいに重たい日常系作品になります。よく言われるのは、ハートフル作品ではなくハートフルボッコ作品だ、ということですかね。一般的に『結城友奈は勇者である』はセカイ系としての側面が目立つようであり、セカイ系と新日常系は結構近い位置にあるジャンルといえるかもしれません。

「新日常系」について調べていくと実に興味深い意見などが見られます。厳密に「これに該当すれば新日常系だ!」と断言できる定義のようなものも見つけることはできるのですが、より簡潔に「新日常系」を表した定義がこちら。

 日常系は日常を共感すること。

 新日常系は日常を痛感すること。

 同じ日常を扱いつつも、作品の世界設定などにより「日常」の意味合いが異なってくるのが、「日常系」と「新日常系」の違いなのだと思います。

 言わば、あえて過酷な状況を背景にして、非日常の中で日常を描くことが「新日常系」になるかと。

「新日常系」の代表作としては、先程あげましたアニメ作品『結城友奈は勇者である』の他には、わかりやすいところでゾンビパニック後の学園生活を描いた漫画作品『がっこうぐらし!』や、小説作品であれば文明衰退後の新人類を観察する『人類は衰退しました』などが該当すると思います。

 ベースとなる「非日常」をどういった設定にするかによって「新日常系」の幅は広がるはずで、セカイ系以外ではたとえばポストアポカリプスであったり、はたまたディストピアであったりする作品において、日常を描いていれば充分「新日常系」かと。そういった意味であれば、比較的新しいジャンルではあるものの、過去に遡っていけばいくらでも「新日常系」に分類できる作品があるかと考えます。

 そしてセカイ系やポストアポカリプスやディストピアなどはSFとして定番ジャンルでもありますので、つまりは「新日常系」はSFととても相性のいいジャンルといえるでしょう。SFとして非日常から日常を描くジャンル。……というか私自身「新日常系」をSFの新ジャンルとして認識しております。

 さて、SFとして日常や非日常などといったワードが登場してきましたが、しかしSFにはもうすでに日常と非日常を描くジャンルが存在しています。それは「すこしふしぎ」です。

 以前『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』を扱った記事において、「青ブタは本当の意味でSF(すこしふしぎ)作品だ!」ということを書きました。

 その記事の中で「すこしふしぎ」について、一説によると提唱したのは『ドラえもん』や『キテレツ大百科』でお馴染みの藤子・F・不二雄先生であるという話をしました。作品の傾向から「日常の中に現れる非日常」という定義に落ち着きます。そこから個人的に「現実としての日常を描きつつ、サイエンス・フィクションによる不思議で非日常を描く」という解釈をしました。「すこしふしぎ」は言葉通りの意味ではなく、ましてはサイエンス・フィクションとしての程度ではない、ということです。

 SFとして「すこしふしぎ」は「日常から非日常を描く」ジャンルであり、一方新しいSFジャンルである「新日常系」は「非日常から日常を描く」となります。

「すこしふしぎ」は「日常から非日常を描く」

「新日常系」は「非日常から日常を描く」

 こう並べてみると、実は「新日常系」って「すこしふしぎ」と正反対のアプローチをしているジャンルになるのではないかと、私は考えます。これって結構面白い事実だと思うのですよ!

「すこしふしぎ」が藤子・F・不二雄作品によって登場しましたので、もう数十年は経過しています。一方真逆である「新日常系」が誕生したのは近年です。思うに、むしろなんで今まで「新日常系」のようなジャンルが確立しなかったのか?と思わざるを得ません。いえ「新日常系」に該当する昔の作品は当然ありますけど、ジャンルとして形になったのは『結城友奈は勇者である』からなので、それまで「すこしふしぎ」の対義語がなかったのは不思議でなりません。……「すこしふしぎ」だけに。

 といった「新日常系」ですが、今回の記事のテーマである『少女終末旅行』に当てはめてみると、『少女終末旅行』は「新日常系」として王道中の王道作品であると断言できるかと。

 なにせ文明が衰退して人類が姿を消した巨大都市を舞台に、チトとユーリという二人の女の子による探索が行われる会話劇的な物語となりますから。ポストアポカリプスという「非日常」と、少女の二人旅という「日常」が描かれたこの作品は、「非日常から日常を描く」「日常を痛感する」という「新日常系」の定義を完璧なかたちで満たしているのです。こんなにもわかりやすい新日常系作品はないのではないか、と言いたくなるほどジャンルに合致していると思います。

 といった具合により、『少女終末旅行』は「新日常系」として意義のあるSF作品だと個人的に勝手に思っています。

 この「新日常系」作品は、実際に作品に触れてみてどういったものなのかを直に確認してみた方がよろしいかと思います。つまり『少女終末旅行』オススメってことです! 是非。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です